鎌倉幕府の“事業承継”を成し遂げた「実務派」北条義時にみる令和のリーダー像

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公として、にわかに脚光を浴びている鎌倉幕府の2代執権・北条義時。源頼朝を旗揚げ時から支え、鎌倉幕府の成立に多大な貢献を果たしたばかりか、承久じょうきゅうの乱では朝廷軍を打ち破り、武家と朝廷の力関係を一変させるという、日本史上前例のない業績を上げながら、頼朝や源義経などと比べ、これまであまり注目されてこなかった人物だ。
歴史家・作家の加来耕三氏は、弱小勢力だった北条氏が幕府のトップに上り詰めた背景には、義時の並々ならぬ情報戦略があった、と指摘する。義時がその手法をいかにして身につけ、どのように使ったのか、加来氏に解説してもらった。

▼加来耕三氏のプロフィール
奈良大学文学部史学科卒業。学究生活を経て、昭和59年(1984)3月に、奈良大学文学部研究員。現在は大学・企業の講師をつとめながら、歴史家・作家として独自の史観にもとづく著作活動をおこなっている。内外情勢調査会講師。中小企業大学校講師。政経懇話会講師。
・代表的著作(新刊)
 『教養としての歴史学入門』(ビジネス社・2023)
 『徳川家康の勉強法』(プレジデント社・2023)
・監修・翻訳等(新刊)
 『読むとなんだかラクになる がんばらなかった逆偉人伝 日本史編』(監修・主婦の友社・2023)
 『コミック版 日本の歴史 第87巻 結城秀康』(企画・構成・監修・ポプラ社・2023)
・その他
 加来氏が解説をつとめる『関口宏の一番新しい中世史』(BS-TBS・毎週土曜昼12時)が放送中。

源頼朝を生きた手本とし、情報分析・活用術のすべてを学んだ北条義時

過去2回でお話しした通り、歴史学では、「なぜそうなったのか?」という“問い”を常に持つことが大切です。北条義時という人物についていえば、真っ先にこういう疑問が浮かんでくるでしょう。すなわち、伊豆のほぼ無名の豪族・北条時政ときまさの次男に過ぎなかった義時が、源頼朝の死後、なぜ鎌倉幕府を合議制によって運営する有力御家人・十三人衆の一人として、父とともに名を連ね、さらには父を失脚させたあと、2代執権として幕府の支配体制を確立することができたのか、という問いです。
いうまでもなく、時政の長女・北条政子は頼朝の妻であり、北条氏は頼朝の外戚でした。とはいえ、1180年、頼朝が平家打倒を掲げて挙兵したとき、それにつき従った北条氏の兵力はわずか50騎ほど。そのような小豪族の出身である義時が、並みいる他の大豪族を抑えて幕府のトップとなり、歴史に残る偉業を成し得た理由とはなんだったのでしょうか。​​​​​​​

確かに、頼朝が旗揚げ直後の石橋山の戦いに敗れて再挙を図った際、2万騎を率いて馳せ参じたとされる上総の大豪族・上総介かずさのすけ広常ひろつねなどと比べると、北条氏は霞んで見えないほどの弱小勢力ですよね。本当にどうして義時は、あれほどの業績を上げられたのでしょう?

それを明らかにするためには、まずその前提となる、もうひとつの大きな疑問について考えなければなりません。それは、そもそもなぜ頼朝は、関東の武士団を結集させて平家を倒し、鎌倉幕府を開くことができたのか、という問いです。というのも、義時という人は、頼朝の家子いえのこ、今でいう秘書のような立場から、主君の政治や外交、情報収集・活用などをつぶさに脇で見て学び、その手法を踏襲することで多大な成果を上げたと考えられるからです。​​​​​​​

なるほど。ではまず、頼朝が幕府を開くに至った経緯からご解説いただけますか。

はい。ご存じの通り頼朝は、清和せいわ源氏の流れをくむ河内かわち源氏の棟梁・源義朝よしともの三男として生まれました。義朝は1160年の平治の乱で敗れて逃走中に殺され、頼朝は捕らえられて伊豆へ配流されています。その後、頼朝は、挙兵までの実に20年間、流人として政治的にはなすところなく時を過ごしたのです。その間に頼朝は、政子と婚姻関係を結び、一応、北条氏の後ろ盾を得てはいましたが、実兵力をほとんど持っていませんでした。​​​​​​​

弱小である北条氏の支持でさえ取りつけたいと考えるほど、無力だったわけですね。

そうです。1180年、後白河ごしらかわ法皇の皇子である以仁王もちひとおうが、平家追討の令旨りょうじを諸国の源氏に向けて発した際、実兵力を持たない流人の頼朝という存在は、おそらく後白河法皇の頭の片隅にさえなかったでしょう。「頼朝は清和せいわ源氏の嫡流ちゃくりゅうではないか」という人がいると思いますが、それはあくまで頼朝が、自身の正統性を訴えるために流した宣伝に過ぎません。甲斐かい源氏の武田信義のぶよし信濃しなの源氏の源(木曽義仲よしなかなど、武家棟梁として頼朝と同格で、実力面では遥かに優る武士は、ほかにいくらでもいたのです。かたや頼朝は挙兵時、たかだか数百程度の兵しか集められず、しかも緒戦の石橋山の戦いで完敗し、その後は逃げ惑っていただけ。にもかかわらず、なぜ東国の武士団は、こぞって頼朝のもとへ馳せ参じ、彼を推戴したのでしょうか?​​​​​​​

学校では、「東国の武士団は、源氏の棟梁である頼朝なら、平家を倒したあかつき、自分たちの土地を保証してくれると考えたから」と教わった気がしますが、もっと実力のある源氏の棟梁はいたわけですよね。とするとなぜ……?

簡単に申し上げますと、頼朝は東国の武士団をペテンにかけたのだ、と私は考えています。実は以仁王の令旨というのは、東海・東山とうさん・北陸三道諸国の源氏へ向けて、「平家を討て」と決起を促すだけのものであって、特定の集団・個人に対してなんらかの地位や役割を付与するような内容ではありませんでした。ところが頼朝は、東国の武士団に対して、「私は後白河法皇に東国の始末をすべて任されました。令旨にそう書いてあります」と、自分にとって都合のいい嘘をついたのだと思います。そして、「私についてくれば皆さんの土地を保証します。さらに、平家討伐で活躍すれば、その分の土地も差し上げます」と約束したのでしょう。いわば、情報操作によって東国の武士団を引っ掛けたわけですね。
ちょっと考えれば、後白河法皇が犯罪者である流人の頼朝に対して、官位も回復させずにそのようなことをいうはずがないことぐらいわかったはずです。しかし、当時の東国の武士団は、世慣れない田舎者の集まりなので、コロッとだまされてしまったのでしょう。一方、引っ掛けた側の頼朝は、13歳まで官位を持ち、京都で過ごしたため、朝廷のやり方をある程度理解していた上、伊豆での20年間の流人生活の中で、東国の武士団がなにを求めているかを、嫌というほど理解していました。​​​​​​​

武士たちは、土地を保証してくれる者をなによりも欲している。しかも、それが後白河法皇のお墨つきの人物となれば、武士たちは必ずその人のもとへ集まってくる、と。

そうです。頼朝のすごいところは、そういう情報分析・活用の仕方を、実によくわかっていたことです。そして、まさにそれこそが、頼朝にできて平清盛にできなかったことでした。清盛は、妻・時子ときこの妹・滋子しげこを後白河上皇に嫁がせて憲仁のりひと親王(のちの高倉たかくら天皇)を生ませ、さらに自分の娘・徳子のりこと高倉天皇の間に生まれた言仁ときひと親王を安徳あんとく天皇としました。要するに武士としてではなく、貴族として従来の院政のやり方を踏襲し、武士たちの「土地を保証して欲しい」という期待には、まったく応えなかったわけです。それが清盛の最大の失敗であり、平家政権が短期間で潰れてしまった要因でした。​​​​​​​

頼朝は、やり口はともかく、武士たちの支持を得ようと努めて成功したからこそ、平家を倒し、鎌倉幕府を開くことができたわけですね。

その通りです。そして、頼朝のそういうやり方をすぐそばで見ていたのが義時でした。彼は次男なので、頼朝の挙兵時、北条宗家ではなく、その後、分家の江間えま家を継いで江間四郎しろう小四郎こしろう)を名乗っています。つまり、頼朝の身近にいながら、よくも悪くも父・時政と比べれば背負うものの小さい、客観的に情報を分析することのできる立場にいたわけです。また、年齢的にもまだ10代と若く、さまざまなことを学んで吸収できる状態でした。すべて偶然とはいえ、そこが義時の一番得をしたところですね。
義時は頼朝の挙兵後、加勢を要請する使者として、時政とともに甲斐源氏の武田氏のもとへ派遣されています。そこで例の頼朝のペテンの効果を目の当たりして、「なるほど、情報とはこのように使うのか」と学んだに違いありません。そして実際、彼のその後の行動を見ると、頼朝からいかに多くのことを吸収したのかがよくわかるのです。

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弱小・北条氏の生き残りをかけ、「学び」と「情報活用」を武器に戦い続けた義時

頼朝と義時には、多くの共通点がありました。ひとつは、「学ぶ」という行為が非常に好きだったことです。頼朝の生涯を見ると、政治にせよ外交にせよ、のちの織田信長や西郷隆盛に見られるような独創や創意工夫というものが、ほとんどないことに気づきます。おそらく頼朝は、流人として政治の中心・京都から遠く離れ、読書や写経をひたすら続ける20年の環境の中で、個人の知恵や発想には限界があるから、必要に応じて過去の叡智から最良のものを選択すればいい、ということを悟ったのではないかと思います。
そのように、頼朝が古典を師として学んだのに対し、義時は頼朝を生きた手本として、情報分析・活用の仕方を学びました。頼朝と同様に義時も、独創性がほとんどない代わりに、ものごとから距離を置いて客観的に分析し、自ら判断してよりよいものを選んだり、改良したりする能力には抜群のものがありました。義時は、頼朝あるいは時政を補佐する立場から、目の前のさまざまな問題を処理せねばならず、さまざまな方法の中から可能性のもっとも高いものを選び、解決・達成に全力を注ぎました。そのように義時は、結果的に頼朝・時政によって、徹底した実務派として鍛え上げられたわけですね。

頼朝と義時のそのほかの共通点というのは?

背景となる力を持たず、とにかく生き残ることを常に考えなければならなかったことです。そもそも頼朝は、以仁王の令旨を受けてもしばらく挙兵せず、事態を静観していました。おそらく頼朝は、やる気がなかったのだと思います。頼朝は冷静で慎重な人間であり、兵を持っていないのに挙兵しようなどと考えるはずがないからです。
結局、頼朝が挙兵したのは、政子との婚姻に関連して伊豆目代もくだい(代官)の山木兼隆やまきかねたかの怒りを買ったことが、直接のきっかけだったと考えられます。頼朝と政子が恋仲となったことで、平家の不興を買うことを恐れた時政が、兼隆と政子の縁談を進めていたところ、政子は頼朝のもとへ逃走。頼朝は、激怒した兼隆との対決を避けられない状況に追い込まれ、やむなく以仁王の令旨にかこつけて決起したのではないか。要するに頼朝は、ただただ目前の危機を脱しようとしただけで、その後のすべてが後づけだったわけです。

義時という人も同じだった、と。

はい。北条氏のように兵力のない、常に危機的な状況にある家が生き残るためにはどうすればいいか、ということだけを必死に考え続けなければならない人生でした。そして、なにか使えるものはないかと一所懸命に考えたとき、義時の周りにあったのは、源氏の棟梁である頼朝と、情報だけだったのです。​​​​​​​
窮鼠猫きゅうそねこを噛むといいますが、どれだけいい情報を持っていても、追い詰められ、それを心から必要とする人間でなければ、懸命に、有効に活用することはできません。平家が負けたのは、まさに強大であったがゆえに、世評や武士たちの声などの情報を軽視し、油断したからです。それに気がついたときには、もう手遅れでした。情報が活かせて使えるのは、そうなる前の段階なのです。​​​​​​​

1221年の承久の乱は、義時の生涯で最大の危機だったとされますが、やはり同様のことがいえますか?

はい。義時は、3代将軍・源実朝さねともの死後、その後継者をめぐって後鳥羽ごとば上皇と激しく対立しました。そして、ついに後鳥羽上皇は倒幕の兵を挙げ、義時追討の宣旨せんじを諸国の武士団へ向けて発したのです。義時には、少なくともその時点では、朝廷と軍事的にことを構える気はなく、話し合いで条件闘争を続ける腹積もりだったのでしょう。
しかし、義時は徹底した実務派です。親幕派の公卿・西園寺公経さいおんじきんつね家司けいしである三善長衡みよしながひららからの急報によって、上皇挙兵の動きをいち早く察知しました。そして、戒厳令を敷いて追討の宣旨を携えた密使を捕らえ、東国の武士団に宣旨を回さないことに成功しました。情報戦に勝ったのです。もし、まったく状況のわからないまま朝廷軍を迎え撃っていたら、幕府軍は敗れていたことでしょう。
義時は、本心では朝廷に勝てると思っておらず、やりたくなかっただろうと思います。なにしろそれまでの日本史上、朝廷に弓を引いて勝った者はいなかったのですから。しかし義時は、ことここに至った以上やむなしと腹をくくり、常のごとく目先の問題に対処するべく、東国の武士団に動員令を出して万全の態勢を整え、嫡男・北条泰時やすときを総大将として京都へ軍勢を送りました。一方、朝廷側は強大で、負けるなどとはさらさら思っていませんから、源平合戦のときの平家と同様、情報の統制にせよ京都の防備にせよ、万事につけ対応が緩慢なわけです。幕府軍は各地で朝廷軍を撃破して、京都を制圧し、宣旨発布からわずか1か月で完勝してしまいました。​​​​​​​

では、現代のビジネスパーソンは、そのように情報を分析・活用して偉業を成した義時から、なにを学ぶべきだと思いますか?

人間は、追い詰められると情報感度が高くなります。ですから、窮地にあることを嘆く必要はありません。むしろ、その状況を活かし、目の前の問題に対処するための情報の活用法を考えることで、成長することができるのです。いついかなる「死地」にあっても、危機意識の高い人は情報を有効に使える、逆転できる、ということを教えてくれるのが、義時という人ですね。
さらにいうと、義時は、自ら率先して組織のリーダーとなるタイプではなく、さまざまな事情に翻弄されながら、結果的に幕府のトップとなった人物です。「自分はそんな柄ではないけど、頼まれたので仕方なく……」という彼の姿勢は、まさしく令和のリーダー像そのもの。現代のビジネスパーソンは、情報活用以外にも、義時の生涯から多くのことを学べるのではないでしょうか。

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